『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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この建物、もともとは若松の船頭町というところにあった建物を戸畑に移設したものと言われています。船頭町、と言ってもピント来ませんが、だいたい現在のわかちく史料館から恵比寿神社あたりの通りに相当するようです。若松半島の突端に位置していたようですが、、、そんなところに大きな建物が建てられたのか、と思うくらい、大きな面積がとりづらいところです。だからこそ、戸畑に移転したのでは、と考えることが妥当なのですが。
安川敬一郎は明治末期の安川・松本家の総合移転に際して、若松にあった建物を一部新居内に組み込みました。これが上写真にあるような大座敷として現存しています。
特に北の蔵は煉瓦造石張りとかなり贅沢な造りをしており、これだけでもかなり建築好きを唸らせる造りをしています。今まで紹介した各年代の建築群と合わせ、うまく整備された上(現段階では整備されない限り一般公開は難しい状況です)での早い時期の公開が待たれます。
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この建物の完成に先立つ大正7年に安川敬一郎は経済界を引退しますが、その際わざわざ引退式まで設けるほどの、殊北九州においては影響力の強かった人物で、たとえ隠居したとはいえ、それなりの建物の形を必要としていたようです。
、、、いや、写真を見る限りは、普通の立派な家一棟分は優にあろうかという造りをしています。本宅(安川清三郎→安川寛)とは当然建物を接続させてはいますが、玄関・勝手口は別に設けられ、そのたたずまいも松本邸の大正期解釈版といった造りをしており、これはこれでなかなか面白いものと言えます。
当時の建物にしては珍しく、漆喰細工と言ったものがほとんどないのですが、その代わり全時代の建物に渡って木材の使用が目立ちます。これも安川家の方針だったのでしょうか。それぞれの時代に造られた建物が、木材という素材によって喧嘩することなく併存している、実に不思議な空間を作り出しています。
ただ、建物同士の脈絡が薄いため、最初に訪れたときはどうしても迷ってしまいます。すべての建物を同時に計画して造っているわけではないので、これは仕方ないことなのでしょう。
その中でも重要文化財クラスの作品を惜しまず紹介いたします(近代化産業遺産総合リストには既に掲載してはいるのですが、、、)。
安川定住宅は既に重要文化財に指定されている松本家住宅(現・西日本工業倶楽部)の隣にある建物で、これまで明治鉱業を興し筑豊三大炭鉱主と呼ばれていた安川家がそのまま保有していました。
昨年より安川家が安川電機に建物を譲渡、現在のところ一般公開に向け、改装が行われているところです。
こちらの建物の面白いところは、明治30年代の和建築と大正末期の洋館、そして写真にあるような昭和初期のモダニズム建築とが併存していることでしょう。玄関車寄部分のむくり屋根を見るだけで、ここは何かありそうだとピンと来る方も少なくないかと思います。
こちらの紹介は1回分ではとうてい済まないので、3回程度に分けて建物の魅力を(出版内容にかぶらない程度に)紹介したいと思います。
それはなぜかと言いますと、和風建築というものは素材の良さ、具体的に言えば木材そのものの質にどれだけ気を配るかといったところに建物の贅沢さが表れているところがあり、よくよく見つめることでようやく違いが分かる、、、ような気がするという非常に素人受けしない、正直言えば見分けが難しい建物で、建築分野に入ったばかりの私には、この建物の調査がNPOで始まった時、まあ、気が重かったと言うほかなかった状況でした(今でもどちらかといえば、機械遺産の方がおもしろさを覚えていたりします)。しかし、さすがは料亭建築。この建物はおもしろさ、いわば棟梁の遊び心が随所に現れています。
たとえば写真にあるこの意匠。一階正面玄関横の壁に施された下地窓意匠は、なかなか面白いものです。正面玄関から松、階段の途中に山と雲、登り切ると月の意匠があります。これらは、地上(世間)から天上(料亭)に至るというデザインモチーフで、ただ凝った意匠という以上のストーリーを作りだしています。このほかにも、欄間や書院、床の間などに用いられた意匠と和風建築の「お約束」、または当時の世相などを考えると、建物を見るときのおもしろさがますます増えていくものです。
この建物は、私が建築端にどっぷり浸かることになって記念碑的(建物にとっては迷惑な話でしょうが)な施設といえるでしょう。これからも建物保存に尽力していきたいと思います。
これで落着めでたしめでたし、となれば良かったのですが、肝心の建物の改修がなかなか始まらず、またそうこうしているうちに隣地では14階建てのマンション建設が計画されています。
、、、こういう計画を見るにつけ思うのですが、「新しい住民が増えて町が活性化する」とか、「周辺道路も整備されて住民にもプラスになる」という良い面が強調されるばかりで、「実は移住してくるのは、奥地に住んでいたお年寄りが多く、結果的に人口は変わらない」ことや、「道路整備とともに交通量が増えて歩行者には返って不便なところになる」なんていう側面は、やもすれば住民サイドからもほったらかしになってしまうのは、なぜでしょうか?
やはり開発=活性化という図式が観光地化している門司港でも結びつく、と思っているんでしょうね、、、マンションよりも、人口増につながる若手の働き口を作ることの方が大事であり、門司港の場合の「それ」は、観光客のリピータを呼び込むための仕掛け作りだと思うのですが。
これ以上の開発は、図面とともに地域にとって良いものかどうか周辺住民で判断できるような、そんな関門地域で会っててこれることを改めて期待します。
期待、、、できればいいのですが。門司港の近代建築に関しては、砂をかむようなニュースが続きます。