『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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この「掲載したかったもの」シリーズの中ではもっとも悔やまれる、もう少しで掲載が可能であったにもかかわらず、掲載できなかった痛恨の遺産群です。
ちょっとこの建物群に関する経緯について軽く紹介します。もともとは製鐵所の従業員住宅の不足に悩まされた雇用側(国ですね)と住宅誘致に乗り出した若松市との利害が一致して洞海湾を挟んだ若松側に作られた50棟100世帯用の集団住居群でした。
日本には数多くの住宅がつくられ、また社宅に代表されるデザインの統一した住居群も数あまたあります。しかし自分たちで自治意識を持ち「洞岡村」という名前まで使用して、さらに洞海湾を挟んだ製鐵所への通勤には専用の波止場まで設けて通っていたという事実はここを措いてそうないでしょう。何とも不思議な話です。
また保存状態もなかなかのもので、現在でも半分程度は当時の面影を遺す建物を見ることが出来ます。
さて、これについてですが、既に学会で研究発表されており、また編集側としても「どうしても(主に私が)」載せたかったため、ここを熱心に研究している先生にアポイントを取り、執筆の了承まで頂き、手はずは整っていた、筈でしたが、
原稿が、落ちました(号泣)。
今回無念の掲載見送りとなりました。K先生には、いずれ、何らかの形でここの話をまちづくり団体相手に発表して貰います。そうでもしないと、もったいなくて仕方ないのです。
ちょっとこの建物群に関する経緯について軽く紹介します。もともとは製鐵所の従業員住宅の不足に悩まされた雇用側(国ですね)と住宅誘致に乗り出した若松市との利害が一致して洞海湾を挟んだ若松側に作られた50棟100世帯用の集団住居群でした。
日本には数多くの住宅がつくられ、また社宅に代表されるデザインの統一した住居群も数あまたあります。しかし自分たちで自治意識を持ち「洞岡村」という名前まで使用して、さらに洞海湾を挟んだ製鐵所への通勤には専用の波止場まで設けて通っていたという事実はここを措いてそうないでしょう。何とも不思議な話です。
また保存状態もなかなかのもので、現在でも半分程度は当時の面影を遺す建物を見ることが出来ます。
さて、これについてですが、既に学会で研究発表されており、また編集側としても「どうしても(主に私が)」載せたかったため、ここを熱心に研究している先生にアポイントを取り、執筆の了承まで頂き、手はずは整っていた、筈でしたが、
原稿が、落ちました(号泣)。
今回無念の掲載見送りとなりました。K先生には、いずれ、何らかの形でここの話をまちづくり団体相手に発表して貰います。そうでもしないと、もったいなくて仕方ないのです。
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