『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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私は個人サイトを運営しているのですが(今更、と言わずに聞いて下さいな)、そちらに当初掲載していた時は「北九州金属」として紹介しました。その後溶接協会の所有であることがはっきりして、、、書き換えてはいたのですが、さらに関係者の話から「紡績工場であった」とのコメントが得られたため、その裏付け作業に入りました。
今出版企画を起こした際、何か目玉がいるということになり、今まで明らかになっていなかった事実、知られていない建物の紹介を考えることになりましたが、その筆頭格がこちらの建物でした。
鹿児島本線からも見える煉瓦建物。今後の所有もはっきりしている。なのに由来ははっきりしていない。
そうして調べた結果、一時期敷島紡績の所有であったことまで明らかになったのです。
昭和16年、明治紡績は戦時国策によって敷島紡績と合併することとなりました。そのときこの工場施設も敷島紡績のものとなりました。煉瓦造の建物(形式も古い)ですので、敷島紡績時代に作られたことは考えられず、明治紡績工場施設であったことが明らかになったわけです。
この施設周辺には紡績工場時代の建物がいくつか存在し、今回の本ではうち3件を紹介しています。北九州では数少ない軽工業の施設であり、地域としての価値は計り知れないものがあります。今回明らかになった事実を踏まえ、これからも大切にしていきたい工場だと思います。
今出版企画を起こした際、何か目玉がいるということになり、今まで明らかになっていなかった事実、知られていない建物の紹介を考えることになりましたが、その筆頭格がこちらの建物でした。
鹿児島本線からも見える煉瓦建物。今後の所有もはっきりしている。なのに由来ははっきりしていない。
そうして調べた結果、一時期敷島紡績の所有であったことまで明らかになったのです。
昭和16年、明治紡績は戦時国策によって敷島紡績と合併することとなりました。そのときこの工場施設も敷島紡績のものとなりました。煉瓦造の建物(形式も古い)ですので、敷島紡績時代に作られたことは考えられず、明治紡績工場施設であったことが明らかになったわけです。
この施設周辺には紡績工場時代の建物がいくつか存在し、今回の本ではうち3件を紹介しています。北九州では数少ない軽工業の施設であり、地域としての価値は計り知れないものがあります。今回明らかになった事実を踏まえ、これからも大切にしていきたい工場だと思います。
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