『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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この会議でようやく出版元が決定いたしました。「弦書房」という、福岡にある出版社の流れを汲む地元の出版会社です。
この日、2005年10月8日の会合では、7人が集まりました。今までで一番少ない人数の集まりで、傍目から見ても「だれ」というものを感じざるを得ない状況でした。
この回では、執筆者から提出された原稿(料亭金鍋第一稿、堀川運河)を検証するとともに、何を具体的に掲載するか、またこれ以上に追加できるものはあるかどうか考えることにしました。
今回の企画について出版社に打診し、内定を受けたこともあり、全体的に雰囲気は明るいものでしたが、まだまだ決めなければならないことも多く、暗中模索の部分が多い、といったところです。
とりあえず、このペースで原稿を書いて貰い続けることと、ページ数は240頁ほどが良いとの指示があったようです。
会議中で真っ先に決まったことは、12月17日に忘年会をやる、というところは会のノリを表していて、何とも言いづらいものがありますね。
この日、2005年10月8日の会合では、7人が集まりました。今までで一番少ない人数の集まりで、傍目から見ても「だれ」というものを感じざるを得ない状況でした。
この回では、執筆者から提出された原稿(料亭金鍋第一稿、堀川運河)を検証するとともに、何を具体的に掲載するか、またこれ以上に追加できるものはあるかどうか考えることにしました。
今回の企画について出版社に打診し、内定を受けたこともあり、全体的に雰囲気は明るいものでしたが、まだまだ決めなければならないことも多く、暗中模索の部分が多い、といったところです。
とりあえず、このペースで原稿を書いて貰い続けることと、ページ数は240頁ほどが良いとの指示があったようです。
会議中で真っ先に決まったことは、12月17日に忘年会をやる、というところは会のノリを表していて、何とも言いづらいものがありますね。
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北九州市が近代化遺産の保存活用を考えるようになったのは、門司港レトロ事業から、と言われていますが、実際はこの建物からだと考えて良いでしょう。
産業施設(しかも一番華がないと言われる工場施設)をコミュニティホールやレストラン・バーに活用する様は、ここが日本かと疑ってしまいたくなるくらいです。
スペックから申し上げると、
1.事務所棟(鉱滓煉瓦造・3階建)→展示施設
2.醸造棟(煉瓦造4階建・階段室は7階建)→一部飲食施設、ほぼ静態保存
3.組合棟(旧変電所・煉瓦造平屋建)→物販施設
4.倉庫棟(煉瓦造平屋建を2階建に改装)→交流施設・飲食施設
の4棟からなる施設群で、大正2年の竣工です。
デザイン性にも一見の価値がある施設です。あまりいろいろとここで書きつづっても、本物の雄弁さには及びません。ここは是非一度訪れて、壮大な煉瓦空間を楽しむなり、中でサッポロビールを呑んでみるなり(笑)、自分なりの遺産の楽しみ方を展開してみてはいかがでしょうか。
産業施設(しかも一番華がないと言われる工場施設)をコミュニティホールやレストラン・バーに活用する様は、ここが日本かと疑ってしまいたくなるくらいです。
スペックから申し上げると、
1.事務所棟(鉱滓煉瓦造・3階建)→展示施設
2.醸造棟(煉瓦造4階建・階段室は7階建)→一部飲食施設、ほぼ静態保存
3.組合棟(旧変電所・煉瓦造平屋建)→物販施設
4.倉庫棟(煉瓦造平屋建を2階建に改装)→交流施設・飲食施設
の4棟からなる施設群で、大正2年の竣工です。
デザイン性にも一見の価値がある施設です。あまりいろいろとここで書きつづっても、本物の雄弁さには及びません。ここは是非一度訪れて、壮大な煉瓦空間を楽しむなり、中でサッポロビールを呑んでみるなり(笑)、自分なりの遺産の楽しみ方を展開してみてはいかがでしょうか。
この建物に関しては個人的な感慨が強く、もう一回何らかの形で書くことがあるかもしれませんが、まずは掲載できなかったことについて。
2006年3月のことでしたか、この建物が壊されてマンションになるという話を受け、あわてて現地に向かいました。そうしたら、右写真の様な事態。
あー、あー、やっちまった、、、。
煉瓦が散らばっていますが、基本的な構造材は鉄筋コンクリートでラーメン構造(柱に加重を保たせる構造)になっています。それが確認できました、、、解体したから。
大正11年に佐伯組(現在の佐伯建設・大分)により造られた建物で、近年では北九州に現存する最古の銀行建築と言われていました。その真偽はともかくとして、一時は日本銀行の仮支店としても使用されていた建物であり、これが小樽であれば金融資料館として活用できたであろう作品です。
直前まで掲載予定リストに入っていながら、惜しくも涙をのんだ、哀しい作品です。
・以上本文・
えっと、ここからは関係者向け業務連絡です。
昨日の今くらいの時間から、当ブログ管理人の庵田は韓国に学会出席の為、あと丸4日ほど電話等(Webは、通じる模様(ソウルより追加報告))に出ることが出来ません。
当ブログは予約更新が出来るため、以前に書いたもので「つなぐ」事が出来ますが、ほかは如何ともしがたいですね。
特に26日の件について、直接指示できず申し訳ございません。ちょうどその日に学会プレゼンをやる予定です。市の担当の方々にはくれぐれも宜しくお願いいたします(って、関係ない人には何の事やらさっぱり分かりませんな)。
2006年3月のことでしたか、この建物が壊されてマンションになるという話を受け、あわてて現地に向かいました。そうしたら、右写真の様な事態。
あー、あー、やっちまった、、、。
煉瓦が散らばっていますが、基本的な構造材は鉄筋コンクリートでラーメン構造(柱に加重を保たせる構造)になっています。それが確認できました、、、解体したから。
大正11年に佐伯組(現在の佐伯建設・大分)により造られた建物で、近年では北九州に現存する最古の銀行建築と言われていました。その真偽はともかくとして、一時は日本銀行の仮支店としても使用されていた建物であり、これが小樽であれば金融資料館として活用できたであろう作品です。
直前まで掲載予定リストに入っていながら、惜しくも涙をのんだ、哀しい作品です。
・以上本文・
えっと、ここからは関係者向け業務連絡です。
昨日の今くらいの時間から、当ブログ管理人の庵田は韓国に学会出席の為、あと丸4日ほど電話等(Webは、通じる模様(ソウルより追加報告))に出ることが出来ません。
当ブログは予約更新が出来るため、以前に書いたもので「つなぐ」事が出来ますが、ほかは如何ともしがたいですね。
特に26日の件について、直接指示できず申し訳ございません。ちょうどその日に学会プレゼンをやる予定です。市の担当の方々にはくれぐれも宜しくお願いいたします(って、関係ない人には何の事やらさっぱり分かりませんな)。
第4回『北九州の近代化遺産(仮)』会合は、2005年9月17日に行われました。参加人数は9名+ゲストがひとり。
この頃は原稿の最終締切を来春と考えていましたので、結構のんびりした感覚で勉強会を続けていました。
この回は九州産業考古学会会員の砂場さんによって「北九州に遺る軍事遺跡」と題し、主に明治期の下関要塞を中心に講義が行われました。
軍事遺産といっても明治期のそれは、美的センスをくすぐるような煉瓦と石材による造形美が施されたもので、なかなかに見応えがあります。ここ辺りの話から実際の用途、一発も実用として大砲を撃っていないことなど、多岐にわたり話は進みました。
講義後は私の担当原稿のうち2件を口頭発表し、それに対する意見を募る作業をやりました。
今後この形式、つまり前半は勉強会、後半は各自の原稿を順次発表していただき、最終的な原稿締切に合わせよう、というパターンをとることになりました。
またこの回から月2回の編集会議を行うことも確認されました。
このパターン、果たしていつまで続くか、そして原稿は順調に集まるのか、この頃は結構楽観的に考えていたものです。
、、、むしろ、自分の担当原稿がかなりの量あったので、それをこなすことが出来るかどうか、私はそこで頭がいっぱいだったのかもしれません。
懇親会は月1回(月の後の回)行いますので。今日はこれで終わります。
この頃は原稿の最終締切を来春と考えていましたので、結構のんびりした感覚で勉強会を続けていました。
この回は九州産業考古学会会員の砂場さんによって「北九州に遺る軍事遺跡」と題し、主に明治期の下関要塞を中心に講義が行われました。
軍事遺産といっても明治期のそれは、美的センスをくすぐるような煉瓦と石材による造形美が施されたもので、なかなかに見応えがあります。ここ辺りの話から実際の用途、一発も実用として大砲を撃っていないことなど、多岐にわたり話は進みました。
講義後は私の担当原稿のうち2件を口頭発表し、それに対する意見を募る作業をやりました。
今後この形式、つまり前半は勉強会、後半は各自の原稿を順次発表していただき、最終的な原稿締切に合わせよう、というパターンをとることになりました。
またこの回から月2回の編集会議を行うことも確認されました。
このパターン、果たしていつまで続くか、そして原稿は順調に集まるのか、この頃は結構楽観的に考えていたものです。
、、、むしろ、自分の担当原稿がかなりの量あったので、それをこなすことが出来るかどうか、私はそこで頭がいっぱいだったのかもしれません。
懇親会は月1回(月の後の回)行いますので。今日はこれで終わります。
分離派建築家の代表選手である山田守の初期作品で、建築筋にはかなり有名な建物です。
山田守と言えば、一般的には京都タワーや日本武道館という作品がありますが、これがなぜか学会的に評判が芳しくありません。概して親しみの持てる作品を多く作った建築家と言えるのでしょう。
門司港地区が持ついわゆる「レトロ」というイメージとは違う、と言う方もいらっしゃいます。たしかに確かに曲線やマリオンの使い方には、回顧主義を超えた普遍的なものを感じます。
それは山田守がもっていた西洋と日本との相克、あるいは様式主義からの解放にたいする回答のひとつではないかと思います。
この建物は、門司港の建物の中で、一番様式から離れたところにある近代化遺産であり、だからこそ、一番価値のある作品なのかもしれません。
中の写真も面白いですが、私はまだ2階以上の部分を見学したことがありません、、、一般非公開部分ですので、本の中で楽しめるかも。
山田守と言えば、一般的には京都タワーや日本武道館という作品がありますが、これがなぜか学会的に評判が芳しくありません。概して親しみの持てる作品を多く作った建築家と言えるのでしょう。
門司港地区が持ついわゆる「レトロ」というイメージとは違う、と言う方もいらっしゃいます。たしかに確かに曲線やマリオンの使い方には、回顧主義を超えた普遍的なものを感じます。
それは山田守がもっていた西洋と日本との相克、あるいは様式主義からの解放にたいする回答のひとつではないかと思います。
この建物は、門司港の建物の中で、一番様式から離れたところにある近代化遺産であり、だからこそ、一番価値のある作品なのかもしれません。
中の写真も面白いですが、私はまだ2階以上の部分を見学したことがありません、、、一般非公開部分ですので、本の中で楽しめるかも。