『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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さて、本邦初公開(Web上では、の話ですが)、岡田医院から発見された棟札です。
NPOでの調査ではまずは実測図の作成(取り毀される可能性もあったため)と現状調査とが平行して行われました。
そのときの「屋上の点検」での出来事を中心に話を致します。
8月の盆休み、暑くて暑くてとてもやってられない時期に、これまた条件としては最悪な屋上調査を志願して臨みました。
その頃はまだ図面記録調査の手順になれておらず、画板での記録に向いていないこともあったためなるべく足手まといにならないよう配役を変わって貰った、とも言えるわけですが(苦笑)。
そのときの屋上の状態というものがまた凄いもので、ホコリが平均50mmくらい積もっているような酷い状況でした。幸い梁はしっかりしていたので、それを渡りながら当時の大工仕事の記録調査を進めます。墨書きによる梁の通し番号(イロハと一二三四の漢数字で縦軸と横軸とを表記していた)の確認を進めながら、妙に天井に木切れが多いことに気付き始めます。
どうも屋上に何か小屋のようなものがあった事だけは確認できたのですが、それと同時に建物棟上げ当時の記録を記した「棟札」が無いことにも気付きます。そんなさなか、私は妙な木ぎれを発見します。
一方が三角状に加工され、しかし人の背丈ほどの長さを持ち幅も広くあります。
建設業者でもある会員のひとりに「これなんでしょうね」、と尋ねると「と渡り板じゃないの」との返事。それでもどうしても気になり裏面を覗いたところ、なんと、小倉警察署改築~、と書いてあるではないですか!
「出た! 警察署だ!」と思わず叫んでしまいました。 これを聞いた某会員は違法駐車をとがめられたと思わず外に出たとのこと(笑)。
この成果は、建物についての新事実を明らかにするとともに、今まで各書籍でこの建物を昭和12年の竣工と書いていたことと照らし合わせ、私の心に既存物件の行っていることは必ずしも真実とは言えないという、疑問を持つ研究精神をも身につけさせて結果とも結びつきました。今の私の研究姿勢の原点がここにあったわけです。
NPOでの通り名称(私が呼んでいるだけの話かも)は「と渡り板」。この時の発見状況からとられたことはいうまでもありません。
NPOでの調査ではまずは実測図の作成(取り毀される可能性もあったため)と現状調査とが平行して行われました。
そのときの「屋上の点検」での出来事を中心に話を致します。
8月の盆休み、暑くて暑くてとてもやってられない時期に、これまた条件としては最悪な屋上調査を志願して臨みました。
その頃はまだ図面記録調査の手順になれておらず、画板での記録に向いていないこともあったためなるべく足手まといにならないよう配役を変わって貰った、とも言えるわけですが(苦笑)。
そのときの屋上の状態というものがまた凄いもので、ホコリが平均50mmくらい積もっているような酷い状況でした。幸い梁はしっかりしていたので、それを渡りながら当時の大工仕事の記録調査を進めます。墨書きによる梁の通し番号(イロハと一二三四の漢数字で縦軸と横軸とを表記していた)の確認を進めながら、妙に天井に木切れが多いことに気付き始めます。
どうも屋上に何か小屋のようなものがあった事だけは確認できたのですが、それと同時に建物棟上げ当時の記録を記した「棟札」が無いことにも気付きます。そんなさなか、私は妙な木ぎれを発見します。
一方が三角状に加工され、しかし人の背丈ほどの長さを持ち幅も広くあります。
建設業者でもある会員のひとりに「これなんでしょうね」、と尋ねると「と渡り板じゃないの」との返事。それでもどうしても気になり裏面を覗いたところ、なんと、小倉警察署改築~、と書いてあるではないですか!
「出た! 警察署だ!」と思わず叫んでしまいました。 これを聞いた某会員は違法駐車をとがめられたと思わず外に出たとのこと(笑)。
この成果は、建物についての新事実を明らかにするとともに、今まで各書籍でこの建物を昭和12年の竣工と書いていたことと照らし合わせ、私の心に既存物件の行っていることは必ずしも真実とは言えないという、疑問を持つ研究精神をも身につけさせて結果とも結びつきました。今の私の研究姿勢の原点がここにあったわけです。
NPOでの通り名称(私が呼んでいるだけの話かも)は「と渡り板」。この時の発見状況からとられたことはいうまでもありません。
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