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庵田
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職業:
無給NPO理事
趣味:
都市散策、調査研究、写真撮影、マンガ熟読
自己紹介:
高学歴ワーキングプア。生活の糧をどうすべきか毎日模索中。
共著でいくら本を増やしても、それは研究者としての実績にならないそうです。数年前から同じ事言ってますが、雇ってくれるところをただ探すのみです、はい。
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『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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f78489c6.JPG福岡の近代化遺産刊行記念、ということで、北九州の遺産も便乗して紹介させていただきます。
北九州の近代化遺産を編纂する際、原則戦前の物件(いわゆる近代の時期)を個別項目として採り上げましたが、戦後物件の中でもいくつかについては「まあ仕方ない」とあえて掲載させていただいたものがいくつかありました。この丸窯はそれらの中でも代表的なものです。
日本に煉瓦が移入された際、いわゆる陶芸のような登り窯形式ではなく、ホフマン窯を代表とした輪窯が製造の主流として用いられました。焼成温度を一定に保つことと連続して煉瓦を作ることが可能であったことがその理由です。その近代の様式をそのまま受け継いだ製造方法が黒崎播磨の本社工場に遺っていました。それがこの丸窯です。
現在煉瓦を作る時にはベルトコンベアのようなラインを設けその中で一定の作業を完了させます。コンピュータによる温度制御が可能になった現在では、温度の管理も容易になりましたが、近代では一定した品質を保つために様々な工夫が用いられました。この技術の結晶は工場内に今も受け継がれているのです。

追伸報告:さて、本日より編纂事務局本人(つまり、私)が長期出張のため、しばらく固定パソコンの前からいなくなります。その間、なるべく更新しておきたいとは思いますが、もしかしたら毎日更新がとぎれるかも知れませんので、その点予めお詫びしておきます。帰宅は28日を予定しています。
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s-hakata-s.JPG遺構の残存状況について若干苦言を述べさせていただきましたが、私自身はよほどの悲惨な残存状況でない限りは掲載対象物件として採り上げたいと考えています。その最低ライン(これくらい遺っていなければ、掲載したくない)が、この施設です。
現在は大学の会議室、、、というより、私の所属研究室から歩いて50メートルくらいの位置に施設保存されているマントルピース(暖炉)です。当時のよすがを知ることの出来るものを近代化遺産の個別事項として採り上げていますが、この暖炉が「最低限」かな、と思っています(単体で採り上げるには少し「弱い」と思いましたので、他にあるいくつかの遺構と併せて項目に採り上げました)。
さて、この物件ですが、元々は博多駅(現在の位置ではなく、地下鉄祇園駅寄りにあった旧博多駅時代のもの)の貴賓室にあった暖炉だとのこと。様々な経緯を経て、現在は建築学科の学生たちに、近代の美意識とはどのようなものだったかとを教えてくれます。
まずは報告から。本日より福岡の主要書店に『福岡の近代化遺産』が並べられるとのこと。もし本屋にお立ち寄りの際はご覧になって下さい。なかったら、、リクエストとかして貰うと私が喜びます(笑)。

「私の編集者のスタンスとして」という前提を付け加えた上で、今回私見を述べさせていただきます。
北九州・福岡と通じて私の考えの中には、「滅失したものについては採り上げない、往時の雰囲気が分からない埋蔵文化財化したものについては掲載を見送る、碑文のみのものなぞもってのほか」という考え方がありました。それは、『北九州の近代化遺産』内では(文体の統一はないにせよ)統一してまとめることが出来ましたが、福岡ではそうも参りませんでした。
たとえば、炭鉱遺跡群として採り上げている部分について、ホッパーや捲上機台座、事務所などの構築物、少し譲ってもせめて基礎構造物レベルが遺っていれば、掲載対象としてもよいかな、と思うのですが、今回全く許し難い「本当に何も遺っていない」執筆内容があり、これには嘆いてしまいました。
また、大日本麦酒=アサヒビールのように取材はしてみたものの、肝心のものが全く取り毀されてしまい(煉瓦工場施設のことです)、それでもご足労頂いた分は何とかして掲載しなければならない、なんて事例もありました。個人的には、あまり面白いことではありません。
考えてみれば、『北九州の近代化遺産』では仮想ライバル(『北九州市の建築』とか、『建築MAP北九州』)と言ったものが厳然として存在していたのですが、今『福岡の近代化遺産』では、その部分の張り合いに欠けているところがあったのかもしれません(作っているときは、そんな意識ありませんでしたが)。
原稿〆切の6月20日、実に全体の半分以上に及ぶ多くの原稿が集まってきました。これは私にとって正直予想外のことでした。なにせ、『北九州の近代化遺産』は〆切を設けていたものの、皆様結構なあなあでごまかしてしまって〆切から刊行まで10ヶ月かかった経験もあったものですから、、、。
さらに『北九州』というお手本があったからか、ずいぶんと個々の文章もレベルが高くなっています。これは、実に素晴らしいことです。
が、それでも「怪しい原稿」は存在します。『北九州』でも、当初原稿を絶対に見せられないものがいくつかありましたが、その悲劇は、福岡でも現実のものとなりました。
さらに、頼まれていない遺産についてもなぜか原稿が届いてしまうと言う怪奇現象が登場。これは、正直参ってしまいます。そういった原稿には、「採否はお任せいたします」と書いていますが、こちらとしては「ああそうですか」と切り捨ててしまうわけにもいきません(いくつか切り捨てましたが、案の定苦情のメールが、、なら、勝手に書くな!)。編集側二名で、どうにかなりませんか、この文章は訂正してください、そのスタンスで文章書かないでください、とか色々言うには言ったのですが、まあ、それだけで疲れますよね。
代表は当初原稿書かないとか言ってございました(それでは、あまりにも何なので、通史は書いて貰うことにしました)が、わ・た・しは追加取材原稿がいくつか増え(今回はほぼ自ら志願してやったことにはなっているものの、、、)、そんなうざったい執筆者との調整はやりたくなかったのです。出版社との調整、原稿校正、写真追加etc。それでも私に何もかも襲いかかってきます。
大学に戻ると准教授から「論文は?」と催促される始末、、、さすがに胃が痛くなる日々です。
そしてこの果てしない異常事態は、11月まで続いてしまうことをそのときの私は、、、ある程度は予想しながらも、そうならなければ良いなと祈っていた状態でした、、、この祈りは天には通じなかったようです。
qu-rigaku-s.JPG一旦九大関連の遺産を特集し出すと、学部ごとでもきりがなくなります。各学部ごとに近代の痕跡が濃厚に保存されているからに他ならないからですが、そんな中でも格段の歴史的インパクトをもつ建物のひとつがこちら。
実にお恥ずかしい話ですが、私自身、博士課程として大学院に戻ってくるまでこの施設の存在に気づかなかったくらい、実に奥まった位置にある施設です。
建物の竣工は昭和19年、しかも原子核実験施設というその存在だけでも、色々と想像をかきたてさせるものが多くあります。キャンパス総合移転計画に基づき将来の動向は定かならない施設ですが、そういった問題以前に、日本の戦史を考える上では、文句なしに重要文化財クラスの建物だと考える次第です。
当然のことながら、内部見学は出来ません。現役の実験施設ですから、当たり前ですね。
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