『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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いかにも学校建築という建物の一角に、門だけが突っ立っているというとても不思議な外観です。この物件、案内板があるのでだれでも(日本語読めれば)その由来が分かる施設なので、この近くを通りかかった人、まちあるきが好きな人ならばご存じの方も多いかも知れません。元々は現在中央区南公園にある動植物園がここにあったのだ、と言っても戦前の話なので知っている人も少ないでしょうが、それを物語る数少ない遺構のひとつです。
戦後この門は新制福岡中学校の正門に転用、のち馬出小学校の敷地の一部となり現在に至っています。マンションが林立する住宅街の中で、用途不明の門が出ている様は、異様な姿と言えます。これも地域が歩んだ歴史の残り香といえるでしょう。
戦後この門は新制福岡中学校の正門に転用、のち馬出小学校の敷地の一部となり現在に至っています。マンションが林立する住宅街の中で、用途不明の門が出ている様は、異様な姿と言えます。これも地域が歩んだ歴史の残り香といえるでしょう。
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今回、大枠の執筆者及び若干の編集事務(困笑)が同じにもかかわらず、名義が変わっています。
ま、確かに「北九州地域史研究会」では、首都圏の方々ならともかく、地元の人間は納得しがたいところはあるでしょうが、それでも「九州産業考古学会」という名義には、なじみのない方も多いかと思います。この団体について簡潔ながら紹介いたしたいと思います。
産業革命以降、日本にも近代化の波が押し寄せてきました。西洋と東洋との文化のギャップ、先進産業需要の過程、それらは文献上でも研究が進んでいます。これを文献以外の資料、つまり過去に構築され実際に残っている遺産、たとえば近代建築、土木、産業機械群などが当てはまりますが、これらを通じて近代、日本の産業はどのように発展進化を遂げていったのかを九州を対象に研究を行っている団体が、九州産業考古学会です。
「産業考古学」、とりわけ考古学という名称からくるイメージで、埋蔵文化財のみを調査する学問のように思われる方も多いかと思いますが、実際は埋蔵文化財のみならず、現在稼働中の工場や使用され続けている機械・土木・建築の研究を多く行っています。
今回福岡の近代化遺産を対象に出版企画を行ったのには、福岡の遺産を紹介するためだけでなく、産業考古学という学問をより深く普及させたい、という編集側の思いが強く表れています。実際本がお手元に届いた際には、このような作者の思いも組みながら読んでいただけると幸いです。
ま、確かに「北九州地域史研究会」では、首都圏の方々ならともかく、地元の人間は納得しがたいところはあるでしょうが、それでも「九州産業考古学会」という名義には、なじみのない方も多いかと思います。この団体について簡潔ながら紹介いたしたいと思います。
産業革命以降、日本にも近代化の波が押し寄せてきました。西洋と東洋との文化のギャップ、先進産業需要の過程、それらは文献上でも研究が進んでいます。これを文献以外の資料、つまり過去に構築され実際に残っている遺産、たとえば近代建築、土木、産業機械群などが当てはまりますが、これらを通じて近代、日本の産業はどのように発展進化を遂げていったのかを九州を対象に研究を行っている団体が、九州産業考古学会です。
「産業考古学」、とりわけ考古学という名称からくるイメージで、埋蔵文化財のみを調査する学問のように思われる方も多いかと思いますが、実際は埋蔵文化財のみならず、現在稼働中の工場や使用され続けている機械・土木・建築の研究を多く行っています。
今回福岡の近代化遺産を対象に出版企画を行ったのには、福岡の遺産を紹介するためだけでなく、産業考古学という学問をより深く普及させたい、という編集側の思いが強く表れています。実際本がお手元に届いた際には、このような作者の思いも組みながら読んでいただけると幸いです。
『福岡の近代化遺産』の宣伝が続きますが、ここで『北九州の近代化遺産』販促目的もかねて、北九州の遺産の紹介も致したいと思います。
今回紹介するのは、百三十銀行八幡支店として建てられたこの施設。現在はギャラリーとして運営されています。実際ご覧になった方は分かると思いますが、若干駅前からは外れた位置にあるように見えます。これは元々の駅の位置が現在よりも東側にあったこと、そして国道3号線バイパス(現在の八幡駅の真下を通る方の道路)建設に伴って曳家移転を行った結果によるものです。
百三十銀行は元々大阪に本店を持つ銀行でしたが、北九州・小倉に本店があった第八十九銀行を救済合併する形で北九州に進出、合併などに伴い現在はみずほ銀行として北九州に支店といくつかの営業所を持っています。地元では辰野金吾設計として名が通っている物件ですが、最晩年の作品、なおかつ鉄筋コンクリート造りの物件であることなどの要因から、辰野が実際設計に関与したかどうかは不透明で、正確には辰野の事務所が設計した物件と言った方がよいようです。
今回紹介するのは、百三十銀行八幡支店として建てられたこの施設。現在はギャラリーとして運営されています。実際ご覧になった方は分かると思いますが、若干駅前からは外れた位置にあるように見えます。これは元々の駅の位置が現在よりも東側にあったこと、そして国道3号線バイパス(現在の八幡駅の真下を通る方の道路)建設に伴って曳家移転を行った結果によるものです。
百三十銀行は元々大阪に本店を持つ銀行でしたが、北九州・小倉に本店があった第八十九銀行を救済合併する形で北九州に進出、合併などに伴い現在はみずほ銀行として北九州に支店といくつかの営業所を持っています。地元では辰野金吾設計として名が通っている物件ですが、最晩年の作品、なおかつ鉄筋コンクリート造りの物件であることなどの要因から、辰野が実際設計に関与したかどうかは不透明で、正確には辰野の事務所が設計した物件と言った方がよいようです。
明けましておめでとうございます。今年も刊行までに至る過程と遺産紹介を出版までぼちぼち紹介したいと思います。福岡の皆様のお手元には、20日前後には確実に届くかと、思います。
それでは本題。
これは「あとがき」に記載させていただいたのですが、木元会長からの趣意書を受け取ったのは2007年の2月、最初の会合は3月の終わり、25日のことでした。おおよそ一ヶ月間の間に一次リストをある程度作れと、素晴らしく酷いスケジュールで動くことになったわけです。
この間私は、ひたすら町中を散策、、、、できないんです。論文〆切、シンポジウム参加、ポスター発表etc...笑えません。ちっっとも笑えるスケジュールじゃあ、無いんですよ!
出版社曰く、「一次リストがないと作品を選びづらい、売り上げにもかなり影響がある」との話ですから、無し、と言うわけには行かないようです。他の執筆・協力者にも「執筆物件を選んで貰わなければ」なりませんし。何とかかんとか、Webデータと書籍記述を基に一次データ(仮)を作製したのです。これ、当然今現在輪転機にかかっている一覧リストとは異なります。途中から加筆修正をばりばり行うことで、まあ、見られるものとなりましたが(今でもそんなに見られるものではないかもしんない)、、、もう、このときはさすがに見せづらいです。
そんなこんなで、3月の会合にまでたどり着きました。
それでは本題。
これは「あとがき」に記載させていただいたのですが、木元会長からの趣意書を受け取ったのは2007年の2月、最初の会合は3月の終わり、25日のことでした。おおよそ一ヶ月間の間に一次リストをある程度作れと、素晴らしく酷いスケジュールで動くことになったわけです。
この間私は、ひたすら町中を散策、、、、できないんです。論文〆切、シンポジウム参加、ポスター発表etc...笑えません。ちっっとも笑えるスケジュールじゃあ、無いんですよ!
出版社曰く、「一次リストがないと作品を選びづらい、売り上げにもかなり影響がある」との話ですから、無し、と言うわけには行かないようです。他の執筆・協力者にも「執筆物件を選んで貰わなければ」なりませんし。何とかかんとか、Webデータと書籍記述を基に一次データ(仮)を作製したのです。これ、当然今現在輪転機にかかっている一覧リストとは異なります。途中から加筆修正をばりばり行うことで、まあ、見られるものとなりましたが(今でもそんなに見られるものではないかもしんない)、、、もう、このときはさすがに見せづらいです。
そんなこんなで、3月の会合にまでたどり着きました。
今年もいよいよ終わりに近づきました。皆様にとってこの一年はどのような年だったでしょうか?
わたしは、この本で一年が終わった感があります(困笑)。はてさて、それが良かったのかどうか、それは本の売り上げ次第です、、、いや、私には一銭も入ってきませんが。
さて、今日は大晦日と言うことで、風情のある和風建築と庭園で飾りたいと思います(あ、明日はどうしよう!)。こちら、友泉亭公園です。福岡市民の皆様、、、になるかどうか分かりませんが、多くの方々には紅葉シーズンの都心の観光名所として有名なところかと思います。毎年どこかのテレビ局が中継に訪れるところのひとつとしても知られています。
友泉亭公園の現地案内板には、「黒田藩の別荘」の部分が強調されており、またパンフレットでもその後の友泉亭の歴史については、ある種ぼかしている部分がありますが、現在この公園内にある主屋は、パンフレット曰く「民間」の貝島家別邸として建てられたものとなっています。貝島家は筑豊の三大炭鉱主として有名な一族ですが、この建物は貝島健次の別荘として建てられ、後大辻炭鉱(北九州香月にあった炭鉱)の保養施設として使用されました。
パンフレットのイメージの問題もあるのでしょうか、貝島の「か」の字も記載されていない現状ですが、昨今の伊藤伝右衛門邸ブームから続く「炭鉱遺産巡り」のひとつに是非ともここを加えていただきたい、と個人的に思います。近くに住む住民(九大生含む)にも地域の歴史をより深く感じて頂きたいとおもい、今回紹介いたしました。
わたしは、この本で一年が終わった感があります(困笑)。はてさて、それが良かったのかどうか、それは本の売り上げ次第です、、、いや、私には一銭も入ってきませんが。
さて、今日は大晦日と言うことで、風情のある和風建築と庭園で飾りたいと思います(あ、明日はどうしよう!)。こちら、友泉亭公園です。福岡市民の皆様、、、になるかどうか分かりませんが、多くの方々には紅葉シーズンの都心の観光名所として有名なところかと思います。毎年どこかのテレビ局が中継に訪れるところのひとつとしても知られています。
友泉亭公園の現地案内板には、「黒田藩の別荘」の部分が強調されており、またパンフレットでもその後の友泉亭の歴史については、ある種ぼかしている部分がありますが、現在この公園内にある主屋は、パンフレット曰く「民間」の貝島家別邸として建てられたものとなっています。貝島家は筑豊の三大炭鉱主として有名な一族ですが、この建物は貝島健次の別荘として建てられ、後大辻炭鉱(北九州香月にあった炭鉱)の保養施設として使用されました。
パンフレットのイメージの問題もあるのでしょうか、貝島の「か」の字も記載されていない現状ですが、昨今の伊藤伝右衛門邸ブームから続く「炭鉱遺産巡り」のひとつに是非ともここを加えていただきたい、と個人的に思います。近くに住む住民(九大生含む)にも地域の歴史をより深く感じて頂きたいとおもい、今回紹介いたしました。