『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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私が一番最初の会合で作製した「採りあげたい遺産リスト」のなかに入っていたものの、余り資料が見つからない、また執筆予定者からは文章を作りづらい(まとめにくい)という申し出があり、一旦は執筆見送りとなった物件です。新しいように見えるかもしれませんが、昭和ひと桁の立派な近代化遺産です。
しかし、ここからが出版企画の不思議なところなのですが、最終局面に近くなって、
「東区の遺産紹介の部分に何か1頁文章が欲しい、既存のものを増やすか、新しいものを作るかして貰いたい」という話が持ち上がり、それならば、と執筆予定者の方が集めた資料と私の土壇場能力(そんなものがあるかどうかはともかくとして)を用い何とかまとめました。仕上がった原稿については、必要最低限の情報と遺産の見所だけはちゃんと押さえたと思うので、まあまあ満足しています。
個人的には、京都の平安神宮と並び称される昭和の神道系近代土木遺産ではないかと思いますが、ここらへんの判断は、皆様に実際見て貰うことで判定していただきたいと思います。
しかし、ここからが出版企画の不思議なところなのですが、最終局面に近くなって、
「東区の遺産紹介の部分に何か1頁文章が欲しい、既存のものを増やすか、新しいものを作るかして貰いたい」という話が持ち上がり、それならば、と執筆予定者の方が集めた資料と私の土壇場能力(そんなものがあるかどうかはともかくとして)を用い何とかまとめました。仕上がった原稿については、必要最低限の情報と遺産の見所だけはちゃんと押さえたと思うので、まあまあ満足しています。
個人的には、京都の平安神宮と並び称される昭和の神道系近代土木遺産ではないかと思いますが、ここらへんの判断は、皆様に実際見て貰うことで判定していただきたいと思います。
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前回と同じような出だしですが、「一覧」を作る際の労力をもう少し知って貰う+「これからの企画」で関係者の協力が欲しいこともあり、話させていただきます。
参考文献の中で、福岡・北九州両企画共に全般的資料という分野を設けています。これは、地域のことを知る上で、また今回の出版企画の中で必須不可欠なものという意味で、リスペクト的に取り扱ったものです。ここに何を採りあげるか、という部分については、、正直申し上げると、編集代表格のさじ加減次第というところが強くあります。参考文献に使う、使わないというはっきりとした基準ではないため、どうとでもなる部分なのです。
さて、この項目に『北九州の近代化遺産』では掲載されて、『福岡の近代化遺産』では、項目別の欄に移動した文献があります。それが表題にある『福岡県の近代化遺産』です。
この書籍は全国における近代化遺産調査報告の福岡県版として1993年に発行された報告書で、一時期は頒布もされていました(現在は各書店の在庫分のみ)。こちらの文献、卒論レベルではずいぶん頼りにさせていただいたのですが、それ以降、たとえば今回や前回の出版企画になると、どうにも使いづらいところが多々ありました。
他府県の近代化遺産総合調査報告書と比べて、まず紹介遺産数が極端に少ない。これはこの報告書が発行された当時、近代化遺産に対する認識がまだ文化財担当者に分かってもらえなかったことが一番大きな原因として挙げられます。だからといって、一次調査報告に対する返答すらしなかった自治体がいくつかあったことは、嘆くほか、ありませんが。
結果として「志免竪坑櫓」や「鈴木商店煉瓦建築群」、「日本足袋福岡工場」など、当然リストに載るべき規模・希少性・歴史的重要性を持った遺産が掲載されていなかったのです。まあ、もっともこれらが掲載されていたら、今回の出版企画自体、必要性がなかったかもしれません。
更に今後の出版企画に際し大きなハードルになっているのが、近代化遺産調査一次リストが全く掲載されていないことです。その当時、地域にはどのような遺産があり、現状ではどうなっているか、或いは各種の遺産が全体としては確認できたが、選考基準の中でどのように選定し、掲載した、しなかったという判断を行ったのかといった研究者レベルでものすごく気になる情報が一切記載されていないのです。これは、私的な話で申し訳ございませんが、私が現在執筆・審査待ち状態の論文の仕上がりに非常に大きな影響を与えており、当時の文化財担当者に恨み事を言いたくなってしまいます。
既に報告書発行から15年が経過しており、当時の調査票も散逸し、残っていない「かもしれない」とのこと(数年前、県担当者に聞き取り)。このような背景を持った報告書を、それぞれに記載された遺産に対しては、充分参考にはなるのですが、全般的な資料という格で扱うことには、とりわけ紹介遺産83件のうち九大と西南学院高校、城山三連橋梁、それに解体されてしまった松十醤油店のたった4件しか紹介されていない福岡周辺地域では許されざる問題と言うほかありません。
国による登録文化財制度が出来て以降、近代化遺産報告書に載っている遺産とそうでないものとの格差(審査基準といった意味でも、保存のされ具合でも)は広がる一方です。率直に申し上げますと、近代化遺産総合調査報告の「やり直し」をこの場において強く要求する所存です。無理ですかねぇ。
参考文献の中で、福岡・北九州両企画共に全般的資料という分野を設けています。これは、地域のことを知る上で、また今回の出版企画の中で必須不可欠なものという意味で、リスペクト的に取り扱ったものです。ここに何を採りあげるか、という部分については、、正直申し上げると、編集代表格のさじ加減次第というところが強くあります。参考文献に使う、使わないというはっきりとした基準ではないため、どうとでもなる部分なのです。
さて、この項目に『北九州の近代化遺産』では掲載されて、『福岡の近代化遺産』では、項目別の欄に移動した文献があります。それが表題にある『福岡県の近代化遺産』です。
この書籍は全国における近代化遺産調査報告の福岡県版として1993年に発行された報告書で、一時期は頒布もされていました(現在は各書店の在庫分のみ)。こちらの文献、卒論レベルではずいぶん頼りにさせていただいたのですが、それ以降、たとえば今回や前回の出版企画になると、どうにも使いづらいところが多々ありました。
他府県の近代化遺産総合調査報告書と比べて、まず紹介遺産数が極端に少ない。これはこの報告書が発行された当時、近代化遺産に対する認識がまだ文化財担当者に分かってもらえなかったことが一番大きな原因として挙げられます。だからといって、一次調査報告に対する返答すらしなかった自治体がいくつかあったことは、嘆くほか、ありませんが。
結果として「志免竪坑櫓」や「鈴木商店煉瓦建築群」、「日本足袋福岡工場」など、当然リストに載るべき規模・希少性・歴史的重要性を持った遺産が掲載されていなかったのです。まあ、もっともこれらが掲載されていたら、今回の出版企画自体、必要性がなかったかもしれません。
更に今後の出版企画に際し大きなハードルになっているのが、近代化遺産調査一次リストが全く掲載されていないことです。その当時、地域にはどのような遺産があり、現状ではどうなっているか、或いは各種の遺産が全体としては確認できたが、選考基準の中でどのように選定し、掲載した、しなかったという判断を行ったのかといった研究者レベルでものすごく気になる情報が一切記載されていないのです。これは、私的な話で申し訳ございませんが、私が現在執筆・審査待ち状態の論文の仕上がりに非常に大きな影響を与えており、当時の文化財担当者に恨み事を言いたくなってしまいます。
既に報告書発行から15年が経過しており、当時の調査票も散逸し、残っていない「かもしれない」とのこと(数年前、県担当者に聞き取り)。このような背景を持った報告書を、それぞれに記載された遺産に対しては、充分参考にはなるのですが、全般的な資料という格で扱うことには、とりわけ紹介遺産83件のうち九大と西南学院高校、城山三連橋梁、それに解体されてしまった松十醤油店のたった4件しか紹介されていない福岡周辺地域では許されざる問題と言うほかありません。
国による登録文化財制度が出来て以降、近代化遺産報告書に載っている遺産とそうでないものとの格差(審査基準といった意味でも、保存のされ具合でも)は広がる一方です。率直に申し上げますと、近代化遺産総合調査報告の「やり直し」をこの場において強く要求する所存です。無理ですかねぇ。
今回、巻末に「福岡の近代化遺産一覧」という、頭が痛くなるような一次リストを再び掲載しましたが、これの参考文献として、『北九州の近代化遺産』の一次リスト作製では重用し、福岡のそれでは用いなかったものがあります。
それが『日本近代建築総覧』及びそれのWeb版に相当する歴史的建築目録データベースです。
このデータベース、多くの近代建築ファン及び研究者が愛用するだけあって、東京や関西圏のデータに関しては、執念に近いほどのデータ集積が進んでおり、地域によっては、後に調査を行っているはずの近代化遺産調査報告も及ばない悉皆調査を行っています。
が、福岡県のそれに関しては、ムラが多すぎる傾向にあります。
とりわけ福岡市。もう15年以上も前にさっさと取り壊された物件をWeb上で「現存」と記載してあったり、かと思えばしっかり現存している教育系建築を漏らしていたり、単に古い調査がそのままかと思えば、最近指定された有形文化財を記載していたりと、一体いつの調査でこんな結論になっているのか、皆目付かないところがあります。
現存していない物件を「ある」と主張する、しかも10件や20件というレベルでなく記載するものに関して、さすがに今回参考文献(ウェブサイト)として扱うことは出来ませんでした。これ、福岡周辺地域の管理はどなたが行っているのでしょうか? 忙しくてメンテナンスが出来ないのであれば、私が手伝っても良いと思うのですが、、、、(都市計画端は「門外漢」だから、ダメですかねえ、、、)。
それが『日本近代建築総覧』及びそれのWeb版に相当する歴史的建築目録データベースです。
このデータベース、多くの近代建築ファン及び研究者が愛用するだけあって、東京や関西圏のデータに関しては、執念に近いほどのデータ集積が進んでおり、地域によっては、後に調査を行っているはずの近代化遺産調査報告も及ばない悉皆調査を行っています。
が、福岡県のそれに関しては、ムラが多すぎる傾向にあります。
とりわけ福岡市。もう15年以上も前にさっさと取り壊された物件をWeb上で「現存」と記載してあったり、かと思えばしっかり現存している教育系建築を漏らしていたり、単に古い調査がそのままかと思えば、最近指定された有形文化財を記載していたりと、一体いつの調査でこんな結論になっているのか、皆目付かないところがあります。
現存していない物件を「ある」と主張する、しかも10件や20件というレベルでなく記載するものに関して、さすがに今回参考文献(ウェブサイト)として扱うことは出来ませんでした。これ、福岡周辺地域の管理はどなたが行っているのでしょうか? 忙しくてメンテナンスが出来ないのであれば、私が手伝っても良いと思うのですが、、、、(都市計画端は「門外漢」だから、ダメですかねえ、、、)。
と、書いていますが、そういった項目はございません。こちらの遺産については、所有者の強い要望により、現名称での掲載となりました。全体の体裁を整えるためには、掲載見送りという選択肢も必要だったのかもしれませんが、そうしてはもったいない、きわめて重要な施設であったため、掲載することとなりました。施設の規模・歴史的経緯性含め、ニビシ醤油・渡辺鉄工所・アロー号・貝島邸と同じく今回の出版企画のキラーコンテンツと言えます。これらがなかったら、「福岡はやっぱりスクラップアンドビルドの街だ、近代化遺産はたいしたものが残っていない」と言われても仕方ないでしょう(スクラップアンドビルドの街、と言う点では間違いないとは思いますが)。
この工場のすごいところは、当初作られた施設群が現在、別業界の工場としてほぼ現状のまま使用されていることです。電化製品の会社ですので、工場見学が安易に出来るような所ではないとは思いますが、それでも、見に行きたいところのひとつだと言えます。敢えてそのままの形で居抜き進出に踏み切った当時の松下電器産業の経営陣、そして現在建物を維持管理しているパナソニックコミュニケーシヨンズ株式会社に謹んで敬意を表したいと思います。
この工場のすごいところは、当初作られた施設群が現在、別業界の工場としてほぼ現状のまま使用されていることです。電化製品の会社ですので、工場見学が安易に出来るような所ではないとは思いますが、それでも、見に行きたいところのひとつだと言えます。敢えてそのままの形で居抜き進出に踏み切った当時の松下電器産業の経営陣、そして現在建物を維持管理しているパナソニックコミュニケーシヨンズ株式会社に謹んで敬意を表したいと思います。
工場の方からは、「もうじき取り壊すかも」と言われ、でもこれは載せたい! という意志の元、何とか書き上げた項目です。この写真にある事務所棟に関しては、何とかしたいという話もありましたが、倉庫棟については今もなお、いつ取り壊されても仕方ない状況ではないかと考えられます。
こちらの施設、一時期は門司赤煉瓦プレイスに隣接する形で移築できないかという話もあがったほど、小規模ながら実に装飾に富んだ、工場建築らしからぬ名作です。残念ながら、まだ解体の噂がぬぐえない現状ですが、工場閉鎖後も東京製綱が物流施設として何とか敷地を確保していることから、当面は即時解体、と言うことには成らないのかな、と考えています。
平成初期の工場火災がなければ、現在は解体された他の煉瓦施設や木造施設とともに現役工場として稼働していたかもしれない、と考えると、残念なところが多々ありますね。
ちなみに、「東京製綱」の最後のコウは「つな」です。「はがね」でも、「あみ」でもありません。ご注意あれ。
こちらの施設、一時期は門司赤煉瓦プレイスに隣接する形で移築できないかという話もあがったほど、小規模ながら実に装飾に富んだ、工場建築らしからぬ名作です。残念ながら、まだ解体の噂がぬぐえない現状ですが、工場閉鎖後も東京製綱が物流施設として何とか敷地を確保していることから、当面は即時解体、と言うことには成らないのかな、と考えています。
平成初期の工場火災がなければ、現在は解体された他の煉瓦施設や木造施設とともに現役工場として稼働していたかもしれない、と考えると、残念なところが多々ありますね。
ちなみに、「東京製綱」の最後のコウは「つな」です。「はがね」でも、「あみ」でもありません。ご注意あれ。