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HN:
庵田
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職業:
無給NPO理事
趣味:
都市散策、調査研究、写真撮影、マンガ熟読
自己紹介:
高学歴ワーキングプア。生活の糧をどうすべきか毎日模索中。
共著でいくら本を増やしても、それは研究者としての実績にならないそうです。数年前から同じ事言ってますが、雇ってくれるところをただ探すのみです、はい。
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『北九州の近代化遺産』&『福岡の近代化遺産』編纂事務局がお贈りする、出版散々回顧録・出版社非公認ブログです。とりあえず、今後の出版企画情報を逐次報告します。
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PC2900048-s.JPG*注……紹介物件は詳細取材を断られた個人宅のため、場所を特定する部分を大幅カットしました(書くには書いたが、クレームが来ることははっきりしているため)。
他は概ね、いつでも本に載せられるようなクオリティを、、、持っているはず(原典を当たっていないからなぁ、、、多分間違いあるかも)だけど、もし誤記があったらごめんなさい。

--(ここより本文)--
三好鉱業幹部社宅 大正期 木造-(略) 八幡西区-(略) 設計不詳 施工不詳

折尾駅から北に向かい、かつて鹿児島本線と筑豊線とを結んでいた短絡線跡-(中略)-かつて三好鉱業が折尾に造った本宅の名残とも言える、幹部社宅である。
明治期石炭の本格的な採掘とともに、北九州の近代化は始まったと言えよう。筑豊炭田の採掘とともに、幕末期に散発的に始まっていたタヌキ堀による採掘活動も、明治中期には西洋技術を用い機械化され、地元財閥と大手資本によって万に近い炭鉱主も集約されつつあった。
 一介の炭鉱夫からのし上がった事業者のひとりである水巻の三好徳松は、明治37(1904)年に頃末炭鉱の鉱業権を受け継ぐと、現在の水巻町を中心に中小炭坑の採掘権を買取ると同時に炭鉱の機械化を推し進めた。彼が作った三好炭鉱は良質な鉱脈に当たったこともあり、大正期には地場大手炭鉱事業者のひとつに数えられるまでになった。
他方労働者には「圧政ヤマ」と恐れられ、高松キナコ(炭鉱内の刑罰の一種。あまりの痛さから、労働者が地面をのたうち回り土まみれになる様から名付けられた。「高松」は三好炭鉱の代表的な坑口の名称)は筑豊の炭鉱労働者に知れ渡った。
三好炭鉱は本拠を折尾に設け、また付近に会社幹部用の社宅を同時に建造した。その内の数件が現存している。この施設のそれら現存する社宅のひとつだ。

建物の所有者の話によると、「おりこうさんの家」であるという。メンテナンスは掛かるものの、夏の暑い時期でも凍える日でも家の中に入れば、適度の温度に保たれている。古来日本の家屋が持っていた湿度と気温を木材で調節する機能をこの建物は見事に受け継いでいるようだ。
三好炭鉱は昭和6(1931)年創業者の三好徳松の死とともに経営の是非に関する議論が行われ、三年後当時炭坑業に目を付けていた鮎川義介率いる日本産業に経営を譲渡した。この炭鉱部門は日本炭鉱という名称で昭和47(1972)年まで採掘を続けている。
三好炭鉱時代の遺産としては、折尾保線区の近郊にエンドレスロープの基台があるほか、八幡西区三ツ頭の三松園(炭鉱での犠牲者を祭るために作られた寺院・公園)には三好徳松の銅像台座(写真)が保存されている。

--(ここまで)--

気力が続かず、日本炭鉱時代まで記述できませんでした、、、、。まあ、こんな感じの文章が載ることもあった、ということです。
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つい先日の話を出来るのは、ある意味久方ぶりではありますね。
先日増刷に向けた校正を打ち合わせるとの名目で、忘年会めいた話し合いが催されました。
と、思ったのですが、、、校正の打ちあわせではなく、どちらかというと来年の学会全国大会の打ち合わせ部分が大きかったですね。

これはつまり、私たち編集事務局をやってきた人間にとって、本の詳細よりも未来志向なのです。
出来てしまった業績よりも、その先の修正作業だったり、次の企画だったり。
もう少し違った何か面白いものを(少なくとも私は)求めてしまいます。

私個人としては、北九州地域のことだけに専念したいところではありますが、大学所属の人間としてそれは許されない事情をはらんでいます(自分の裁量だけで研究できればいいのですけど、それって研究所専任研究員か学芸員のような立場でしかできません)。
さて、今年末は増刷に向けた校正作業で終わることになります、、あ、年賀状書いてない(汗)。
sumitomo-waka8-s.JPG日本建築学会の近代建築悉皆調査集成『日本近代建築総覧』は、確かに労作ではあるのですが、時々なぜそういう結論に達したのか分からない情報が記載されています。
小倉警察署庁舎についても同じ事が言えますが、この旧銀行建築建築に関してもそうですね。どこをどうやったら「大正時代の竣工でRC」という結論になるのか、分かりませんでした。
登記簿を調べてみると鉄骨煉瓦造と有り、『住友銀行史』を見てみれば、明治の建造物と書いてある。いったいどういうこっちゃ? と首をひねりました。
卒論時点の私であれば、書籍に書いてあることが正しいのでは、とスパっと疑念を振り切ったかもしれませんが、「岡田医院→小倉警察署」での実績以降、それでは収まらなくなりました。古写真の発見と建物火災により補修を受けたとの事実確認により、この建物の年代を断定しました。
結論から言うと、この建物は現在福岡県に遺る銀行建築の中でもっとも古い煉瓦建築となります。その割には、全然注目されていませんが。どうにかしようよ、せめて案内板を作るとかさ。
ba-23-s.JPG2006年3月取り毀された物件ですが、取り毀し前の約6ヶ月をかけてNPOによって建物記録調査を行いました。
私もだらだらと歴史関係の調査を行ったわけですが、そのときにこの建物の姿が昭和20年代に大きく変更されていたことを知りました。
見た感じ戦後物件のように見え、またそれが故に取り毀しの憂き目にあったこの物件は、やはり隣にあった明治屋門司支店のように空襲の被害で外装の改装を余儀なくされたのかもしれません。

この建物と同じような外観をした物件が門司駅近く、岡野商事ビルとなって現存しています。この岡野商事ビルは当初、「大分合同銀行大里支店」として建てられた物件で、門司港の建物が改装を受けた時期と期を同じく新築されています。
だからといって、岡野商事ビルが当該物件の代替物とはなり得ないわけですが、よすがを偲ぶくらいはできるかな、とか何とか言いながらここに出来るマンションを恨めしく眺めることでしょう。
因みに先日取り毀しの憂き目にあった「麻生商店若松支店」跡地と当該物件跡地にマンションを建てる業者さんは同じ所です。何か近代建築に恨みもあるのでしょうか??
まち歩きでガイド役を務める際、よく「足下をご覧ください」とか、「あちらの建物の屋上に」とか、「ここの電柱についている装飾が」等と説明すると、
よくそんなこと知ってますねどうやって見つけるんですか、との質問を受けることがあります。
その答えには2種類ありまして、ひとつは既存書籍やウェブサイトにある記事を重箱の隅をつつくように眺めているためです。
私は普段、書籍の速読をやってしまったりする方ですが、近代化遺産の研究に関しては、なまじ速読して「おいしいとこ取り」してしまうと、隅の方にある一見どうでも良いような、面白い話を逃してしまいがちです。
気になる地域本に対しては、とにかく、じっくり読みます。一項目をひたすら眺めます。数日おいてまた同じ所を読んだりもします。変な奴です(笑)。

もうひとつの手段、本で得られない事実は、実地で得られます。これこそ、産業考古学の真骨頂です。
ここでもひたすらにじっくり見ます。時折下を向いたり、上を向いたり。建物の裏側まで寄り道がてら回ったり、細い路地を巡ったり。身なりこそきちんとしているつもりですが、怪しいです。今のところ通報される事態だけは何とか、無いわけですが、パトロール中の警察の尋問は受けたことがあったり、、、(苦笑)。いや、その場で当然無罪放免ですが。
ただ、私が撮っている写真は、建物写真以外にもマンホールだったり、電柱だったり、丸窓だったり道だったりと人に言わせれば統一感がなかったりもするようで(人物だけは風景を淋しくしない目的以外には撮らない)、見る人が微妙な顔をするそうです。
私は「研究しているんだ、何が悪い!」とふんぞり返りますので、そういった意味ではここはトラブル要因を内包しているのかも、、(反省)。
虚仮の一念で地域を調べ続けたい人は、試してみてください。お勧めは致しません。よいこは真似しちゃダメです(笑)。
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